



すぐれた東洋古美術の多くは、古くから公家や武家、そして豪商などの邸に秘蔵されてきました。江戸時代においてその頂点にあったのは、いうまでもなく徳川将軍家であり、徳川御三家でした。
その御三家筆頭である尾張徳川家初代の義直は、関ヶ原合戦のあった慶長5年(1600)家康の第九子として側室お亀の方との間に生まれました。慶長12年には8歳にして尾張国主に封じられ、ここに尾張藩は始まりました。
初代義直は学問を好み、儒教に傾倒し、文治政策を推し進めました。
やがて美濃と信濃の一部も加封されて、元和5年(1619)には総石高61万9450石といわれ、その当主は従二位権大納言を極位極官とする家格とされました。
七代藩主宗春は幕府の緊縮財政にたいして積極的な自由放任政策をとり、その結果名古屋の城下は栄え、江戸・大坂・京都に次ぐ大都市となりました。
このような経済発展は幕府との確執を生むもとにもなりましたが、同時に華道、茶道、俳諧といった芸事を盛んにし、また他国から多くの役者が城下に集まるもととなり、今日名古屋が「芸どころ」といわれる基礎をつくりあげました。