徳川美術館 English Korea/China
企画展案内 / Exhibition

平成22年(2010年) 企画展 / Exhibition

平成22年2月6日(土)〜4月4日(日)【特別展】尾張徳川家の雛まつり

企画展の詳しい解説

 「桃の節供」とも呼ばれる雛祭りは、男雛女雛を中心として、さまざまな人形や道具を飾り、女の子の成長と幸せを祈って行われる、春の訪れを告げるにふさわしい年中行事です。

 雛祭りは、古代中国において三月の最初の巳(み)の日に、水辺に出て穢(けが)れや災いを祓う行事が起源と考えられています。この行事は、古く7世紀には、わが国にもたらされ、上巳(じょうし)の節供として3月3日に行われるようになりました。平安時代には宮廷の年中行事として定着し、この日に曲水(きょくすい)の宴を催したり、桃酒を飲んだりしました。
 また自分の罪や穢れを、息を吹きかけたり身肌にすりつけて人形に託し、水辺に流す風習がわが国の俗信仰として古代からありました。これとは別に『源氏物語』をはじめとする王朝時代の文学作品の中には、幼い子どもたちの遊びに用いられた人形を「ひいな」と呼んでいます。これらの風習が何時の頃からかは明らかではありませんが、3月3日の雛祭りとなったと考えられています。

 江戸時代になると、次第に雛祭りは盛んになっていきました。今日みられるような雛祭りの形式は、江戸時代の初頃に形成されたと考えられています。尾張徳川家では、寛永14年(1637)に初代義直(1600〜50)が、娘の京姫の節供の祝儀として雛10対を贈った記録があり、また日本一のお嫁入道具として名高い国宝「初音の調度」の所用者 千代姫(3代将軍家光の娘で尾張2代光友夫人)が7歳の時に、諸老臣から雛人形が献上されています。
 文政4年(1821)に起筆された『甲子夜話(かっしやわ)』という本によれば、当時の江戸城大奥での雛祭りでは、段を設けず畳の上に毛氈を敷いて雛人形を並べる平飾りであったと記されています。さらに大奥に仕える者の親戚縁者にあたる人々も、雛飾りの参観を許されていました。この行事は「雛拝見(ひなはいけん)」とよばれ、幕末まで続きました。

 13代将軍家定(いえさだ)の頃になると、大奥では、将軍の夫人である御台所(みだいどころ)のお雛さまは、対面所、休息間をはじめとする3ヶ所に飾られていたと伝えられています。飾り付けも平飾りから段飾りへと変化を遂げていきました。このうち対面所では、紅白縮緬(ちりめん)の幔幕(まんまく)を張り、その前に吉野山・龍田川などの名所絵や源氏絵などを描いた金屏風をたて、緋毛氈(ひもうせん)がかけられた3段からなる、高さおよそ2メートル、幅およそ15メートルの雛段が設けられ、上段には小直衣雛(このうしびな:有職雛の一つ)を中心に、数組の雛人形が鏡仕立ての座布団の上に並べられていました。中段には7人立ちの楽人の人形3組が配され、その両端に調度類が据えられ、下段には能人形が並べられていたそうです。
 13代将軍の後室・天璋院(てんしょういん)篤姫(安政3年 1856 結婚)の頃の大奥では、御座ござの間と休息間の2ヶ所に雛段が設置され、休息間の方は「御内証雛(ごないしょうびな)」と呼ばれたプライベートなお雛さまが飾られていました。御座の間の雛段は12段あって、最上段には古今雛や次郎左衛門雛などが並べられ、これらの人形の衣裳は毎年新調されていたと伝えられています。

 徳川美術館には、江戸時代に御三家筆頭という将軍家に次ぐ家柄にあった尾張徳川家のお姫様たちのためにあつらえられた、さまざまなお雛さまや雛道具が伝えられています。その多くはいずれもが可愛らしく、しかも優雅で品格に満ちた品々です。
 今年も、観る者の心を和ませてくれる雛まつりの世界をお楽しみ下さい。

【副館長 四辻秀紀】

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