特別展・企画展

秋季特別展 歌仙―王朝歌人への憧れ―

 古来よりすぐれた歌人は「歌仙」とよばれ、歌詠みたちにとって崇敬の対象でした。歌仙は、歌聖として崇められた柿本人麿・山部赤人、さらに『古今和歌集』仮名序に取りあげられた六歌仙や、藤原公任(きんとう)(966~1041)による『三十六人撰』にもとづく三十六歌仙が代表的です。
 歌仙を絵に描くことは、人麿像にはじまります。11世紀の歌人・藤原兼房が夢に現れた柿本人麿を絵に描いたという逸話や、人麿像を礼拝する「人麿影供(ひとまろえいぐ)」を元永元年(1118)に藤原顕季が行ったという記録がのこっています。そして、歌仙をその和歌と略伝とともに描く「歌仙絵」は、『三十六人撰』の人気の高まりにつれ、平安後期ごろに製作されたと考えられます。治承年間(1177~81)当時の歌人三十六人をその和歌とともに絵姿にあらわしたという「治承三十六人歌合絵」が現存する最も古い遺品として伝わります。
 鎌倉時代になると、歌仙絵は当時の肖像画「似絵(にせえ)」の流行とあいまって、大きな隆盛をみました。いわゆる「佐竹本」や「上畳本」・「業兼本」・「後鳥羽院本」など優れた三十六歌仙絵が製作されました。また、新旧の歌人による架空の歌合を擬した『時代不同歌合』が後鳥羽天皇によって撰ばれると、盛んに絵画化されるようになり、三十六歌仙絵とともに歌仙絵の主流となりました。歌仙絵はその後、やまと絵の主要な画題として、室町時代を通して絵巻や屏風、扁額など、さまざまに形を変えて描き継がれていくこととなります。
 戦乱の世が終焉を迎え、元和偃武(げんなえんぶ)とよばれる太平の世が訪れた17世紀では、歌仙絵も変容をむかえます。後陽成天皇や後水尾天皇を中心として、公家や上層町衆からなる文化サロンにおいて、王朝文化を理想とした文化が花開くと、武家の古典享受も一層顕著となりました。
 こうした流れから、17世紀の画壇に割拠した、狩野派や土佐派・住吉派・琳派などの諸派によって、中世の歌仙絵は古典作品として盛んに参照されました。歌仙絵の伝統としては「業兼本」や「時代不同歌合絵」が特に重視されてきましたが、それまで図様として活用されることのなかった「佐竹本」や「後鳥羽院本」なども、手本としてその意義を高めていきました。また、従来描かれることの少なかった、『新六歌仙』や『新三十六歌仙』『女房三十六歌仙』『百人一首』などの歌仙絵も、数多く作られるようになりました。
 さらに、歌仙をもとに、中国の詩家三十六人から成る「詩仙」や「儒仙」・「武仙」が誕生するなど、歌仙から派生した様々な作品が好まれたのも、17世紀の歌仙絵の特徴の一つです。
 本展覧会では、佐竹本8点、上畳本3点、業兼本8点、後鳥羽院本6点をはじめとした中世の歌仙絵と、17世紀の画壇で活躍した狩野探幽や土佐光起、住吉具慶などによる17世紀の歌仙絵を中心に、重文18点、重美6点を含む、歌仙絵の名品を紹介いたします。永きにわたって描き継がれた歌仙絵から、中世の典雅な美意識と17世紀の可憐かつ瀟洒な美意識を見比べてお楽しみいただけます。