尾張徳川家について

 尾張徳川家は、江戸時代に創設された大名家です。徳川将軍家に連なる御三家の筆頭格で、諸大名の中でも最高の格式(家格)を誇っていました。
 初代は徳川家康の9男義直(1600~50)です。義直は慶長12年(1607)、父・家康の命で尾張国(現在の愛知県西部)の大名となり、名古屋城を居城としました。61万9500石の石高を領し、尾張国や美濃国の一部などを領地としていました。御三家の重要な役割として、徳川将軍家に跡継ぎが無い時には、尾張徳川家は紀伊徳川家とともに将軍後継者を出す資格がありましたが、尾張徳川家からは将軍を出すことはありませんでした。
 初代義直は学問を好み、儒教に傾倒して文治政策を推し進め、2代光友(1625~1700)以降の歴代当主もまた、学問に励みました。7代宗春(1696~1764)は、8代将軍吉宗がかかげる質素倹約政策に反して積極的な自由放任政策をとり、城下町名古屋に繁栄をもたらした結果、「芸どころ」名古屋と呼ばれるきっかけを作りました。
 7代宗春が8代将軍吉宗の命で隠居謹慎を命ぜられたあと、8代宗勝(1705~61)が分家の高須松平家から尾張徳川家に入り家督を継ぎました。宗春の治世の放漫財政と風紀の乱れを一掃し、人心の刷新をはかった宗勝の政治改革は、9代宗睦(1732~99)へと継承され、その後尾張徳川家は、将軍家や御三卿から養子を迎えながら、幕末へと向かいました。
 幕末維新期の尾張徳川家のかじ取りを担ったのが、分家の高須松平家出身で尾張徳川家の家督を相続した14代慶勝(1824~83)でした。慶勝は将軍継嗣や外交問題で時の大老・井伊直弼と衝突して隠居謹慎を命ぜられ、慶勝の弟・茂徳(1831~84)が尾張徳川家の家督を継いで15代となりました。慶勝も謹慎解除後は復権し、年少の14代将軍家茂を補佐しました。15代将軍慶喜が大政奉還した慶応3年(1867)当時、尾張徳川家は慶勝の子の16代義宜(1858~75)が当主で、慶勝は隠居ながらも義宜を後見する立場にいました。
 16代義宜の早世により、慶勝は高松松平家より義礼(後の尾張徳川家18代 1863~1908)を迎え、その後、越前松平家から迎えられたのが19代義親(1886~1976)でした。
 義親は、歴史学者・生物学者であったと同時に、政治家・事業家としても盛んに活動しました。その一方で伝来の美術品の保全を図るため、昭和6年(1931)財団法人尾張徳川黎明会を設立、同10年名古屋の地に美術館を建設し、尾張徳川家伝来の宝物の公開を始めました。徳川美術館の開館です。義親の後は20代義知(1911~92)・21代義宣(1933~2005)が継ぎ、現在22代義崇(1961~)が美術館の館長を務めています。

尾張徳川家について

尾張徳川家歴代の系図

尾張徳川家歴代の系図