特別展・企画展

夏季特別展 徳川慶勝
―知られざる写真家大名の生涯―

 尾張徳川家の分家・高須松平家に生まれた慶勝(よしかつ)は、将軍家からの押しつけ養子が4代続いた尾張徳川家にとって、半世紀ぶりに尾張徳川家の血筋から迎えられた待望の殿様でした。嘉永2年(1849)に14代当主となって以降、人材登用を進めて、藩政の改革を積極的に推し進めます。また、開港問題や将軍継嗣問題に揺れる幕府政治にも関わりを深めました。しかし、対立していた井伊直弼が大老となったことで、安政5年(1858)に失脚・謹慎を余儀なくされ、藩主の座はわずか10年で逐われることになります。
 尾張家の家督は弟の茂徳(もちなが)が継ぎますが、風雲急を告げる幕末の政情は、再び慶勝を必要とします。桜田門外の変で井伊が暗殺された後、万延元年(1860)9月に謹慎を解かれ、朝廷との周旋役として、隠居の身ながら政治の表舞台に戻ります。孝明天皇や14代将軍家茂(いえもち)からも深く信頼され、第一次長州征伐では征討総督を務めて、長州藩の降伏を最小被害で勝ち取る戦果を挙げました。そして、文久3年(1863)に弟の茂徳が藩主を退いた後、16代を継いだ実子の義宜(よしのり)は数え6歳だったことから、慶勝がその後見役となり、事実上最後の殿様として幕末・維新の混乱期の舵取りを担いました。
 慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦における幕府軍の敗退で世上の混迷が深まる中、国内を二分する内戦となることを恐れた慶勝は、いち早く新政府側の立場を鮮明にし、さらに東海道・中山道沿道の大名・旗本・寺社に対して新政府に忠誠を誓わせ、沿道の軍事権を一手に掌握します。新政府軍が、ほぼ無傷で江戸に到達できたのも、慶勝のこういった知られざる活躍があったからであり、まさに慶勝なくして明治維新は成し遂げられなかったといっても過言ではありません。明治新政府は、その功績を賞して尾張家当主としては破格となる従一位を慶勝に授けました。
 維新後の慶勝は、名古屋藩知事を経て、明治天皇の諮問にあずかる麝香之間伺候(じゃこうのましこう)や第十五国立銀行の設立発起人・徳川一門の宗族長などを勤める中、明治8年(1875)に、16代義宜がわずか18歳で夭逝(ようせい)したことで、再び家督を継承して17代当主となります。晩年には士族授産に力を尽くし、旧家臣団を北海道開拓へ送って、現在の八雲(やくも)町の基礎を築きました。
慶勝の活躍は、政治のみならず文化面にも及んでいます。慶勝は、書画・博物学・文芸などに造詣が深く、有数の文化人大名としても著名でした。特に西洋から渡来した写真術を自ら研究し、日本で初めて営業写真館が開業した文久元年(1861)に、早くも独自に写真撮影を成功させ、数多くの貴重な写真を遺しています。
 ただ、慶勝が撮影した写真は、営業・販売を目的とせず、私的に撮影された写真のため、その大半は一般に知られることがなく、現在でも未公開の写真が多数遺されています。この中には、江戸(東京)・名古屋などの風景写真も数多く含まれており、今回の展覧会では、写真原板や慶勝の研究記録を含め、初公開となる慶勝撮影の写真を多数紹介します。また、室内装飾に写真を採り入れた組み立て移動式の茶室も特別に公開いたします。
 今年は、慶勝が明治16年(1883)に60歳で歿して130年目の節目を迎えます。未曾有の国難を乗り切り政治家として卓越した力量を示しながら、これまでほとんど知られることが無かった慶勝の功績をたどり、文化人としても多彩な才能を発揮した慶勝の素顔と、その生涯を紹介します。

概要

会期
展覧会図録 「徳川慶勝―知られざる写真家大名の生涯―」900円(税込)
▶徳川美術館オンラインショップからもご購入いただけます。
資料 企画展チラシ(PDF:1.6 MB)[更新日: 新しいウインドウで PDF を開きます
展示作品リスト(PDF:76.4 KB)[更新日: 新しいウインドウで PDF を開きます